群馬県信用保証協会

大間々と高津戸峡周辺の道

折々の散歩道

歴史と自然が織りなすハーモニー

みどり市

 「祭りのあと」という言葉には、「さびしさ」とか「しずけさ」という言葉が続きます。マイナスのイメージをもつ言葉ではあるのですが、どこかしら明るさが漂っているようにも感じられますが、それは、祭りのあとには、殷賑の気配が残っているからでもあり、達成感と虚脱感が表裏一体と化しているからでもあり、また、晴れ晴れとした放心状態を思わせるからでもあります。11月の終わりに足を運んだ「ながめ公園」は、まさしくそんな状態でした。10月下旬から11月下旬まで開催されていた「関東菊花大会」も終わり、撤収作業もあらかた完了した会場には、菊人形の剥き出しになった骨組みや背景画だけが、点々と残されていたのですが、そんな「祭りのあと」の光景には、えもいわれぬ風情が感じられ、妙に心にしみるものがありました。「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ、見るものかは。」といったのは、吉田兼好です。『徒然草』第一三七段で、桜の花は盛りに咲いているのだけを、月は翳りなく照っているのだけを、眺めるものだろうか、と疑問を呈し、桜は、開花する前の梢のようすや、散った花びらが庭でしおれているようすにも見所があり、雨の日に見えない月を心の中で思い描くことも情緒があるものだ、としています。兼好は、引き続き、桜に限らず、すべてのことについて、始めと終わりが特に趣き深いと述べ、恋愛を例に挙げています。つまり、幸せな両思いだけが恋愛なのではなく、片思いで終わったり、失恋したり、遠距離恋愛をしたり、幸せだった頃を思い出したりすることもまた、恋愛なのだというのです。その伝でいけば、菊も、菊花大会も、大会期間だけを楽しむのではなく、「祭りのあと」の様子にも趣き深さを感じとることは、決して間違いではないでしょう。もちろん、「関東菊花大会」の開催期間中にも足を運び、その華やかさ、鮮やかさを知った上でのことですので、その辺はお間違いなきよう。

 今回は、ながめ公園駐車場に車を停め、まずは公園内を見学してから、大間々のまち並みを散策し、高津戸峡や要害山にも足を伸ばすことにしましょう。ながめ公園は、大正14年にながめ遊園地として開園し、現在は、昭和12年築のながめ余興場が建っているほか、菊花大会で有名です。ながめ余興場は、純和風の味わい深い建物で、美しい白壁や切符売場などのレトロな意匠も鑑賞のポイントです。公園からは、ひとまずまちなかへと足を進めます。わたらせ渓谷鐵道大間々駅は、昭和16年建築のレトロな佇まいの駅舎で、要害山を背にして、こじんまりと可愛らしく建っています。駅前の通りをまっすぐ西へ進むと、古い木造の商家や洋館が現れ、歴史の奥行きを感じさせてくれます。すぐに南北に走る国道122号にぶつかるので、南へと進みます。道沿いは商店街が続いていて、近藤酒造や岡直三郎商店(醤油醸造)などの格調ある古い建築物のほか、昭和のテイストを濃厚に残した懐かしい店構えの商店が軒を連ねています。やがて、ガラスを多用したモダンで瀟洒な上毛電鉄赤城駅が現れます。来た道を北へ少し戻り、左に折れて国道353号を西に進むと、桐原宿の交差点が現れます。桐原宿は、銅(あかがね)街道の宿場町で、道沿いに由来を書いた案内板が立っています。「銅街道は、慶長15年(1610)栃木県足尾町に銅が発見されて以来、徳川幕府は直轄の御用山として、足尾産の粗製銅を江戸に搬出するための通路を、慶安2年(1649)に銅街道として整備した。……」と書かれていますが、周囲にはかつて宿場町であったことを偲ばせるものはほとんどなく、静かな農村風景が広がっています。それは銅運搬を目的としたという街道の成り立ちによるのかもしれません。唯一、弘化4年(1846)年建築の桐原郷蔵が、往時の様子を伝えています。郷蔵は、徳川幕府の貯穀令により江戸時代に建てられた穀物などの貯蔵庫で、現存するものは少なく、県指定史跡となっています。隣には、世音寺と杉森稲荷古墳があります。銅街道から逸れ、国道122号まで下り、山本屋でカレーうどんを食べてから、122号沿いの商店街を北へと進みます。大正10年建築の旧大間々銀行(現大間々博物館・コノドント館)や奥村酒造の風格ある建物を鑑賞し、十字路を大間々駅方面へと折り返し、高津戸峡へと向かいます。

高津戸橋とながめ余興場

高津戸橋とながめ余興場

高津戸峡とはねたき橋

高津戸峡とはねたき橋

 高津戸橋は、最近新しい橋がかかり(古い橋もすぐ南に残されています)、真紅のアーチ橋は渓谷に美しいアクセントを与えています。渓谷沿いの遊歩道を進みます。木道の遊歩道はメンテナンスが行き届き、安心して渓谷美を堪能できます。やがて小さなはねたき公園が現れます。少し先では高津戸ダムの威容を見ることができます。歩行者専用の白いはねたき橋で対岸に渡り、神明宮を経て、再び高津戸峡を渡り、今度は渓谷の遊歩道ではなく、要害山へ登る遊歩道に歩を進めます。落ち葉を踏みしめながら気持ちよいハイキングが楽しめます。要害山は標高273メートルで、川沿いの高台という立地の良さを生かし、中世には高津戸城が築かれていました。渡辺崋山の「毛武遊記」によれば、この城は寛治年中(1080)頃に山田七郎平吉之が創建しましたが、その末裔山田筑後守平則之が観応2年(1351)に桐生氏に滅ぼされ、桐生氏の所有となりました。その後、天正5年(1577)に、中傷による無実の罪で自害させられた父里見勝広の仇を討つべく、里見随見兄弟が上杉謙信の後援を得て再興しましたが、翌年、太田金山城主由良氏の軍勢の攻撃を受け落城、兄弟は討死しました。頂上の城址(本丸跡)には現在、要害神社が建っています。遠い歴史に思いをはせつつ遊歩道を戻り、盛りだくさんの散策を終えました。

文/企画課 新井基之

●今回ご紹介したコース