群馬県信用保証協会

中郷・北牧の道

折々の散歩道

歴史があやなすうららかな山里

渋川市

 先頃、アイスランドにある火山の噴火により、ヨーロッパ上空に火山灰が拡散し、航空ダイヤの乱れなど、広範囲にわたり大きな被害が発生しました。日本でも、記憶に新しいところでは、2000年の三宅山噴火により長期間島民が避難生活を余儀なくされました。群馬県では、近年、浅間山の活動が活発化していましたが、幸いなことに、4月15日に警戒レベルが1まで引き下げられました。幾多の火山被害でなんといっても有名なのが、イタリアのポンペイですが、群馬県には「日本のポンペイ」と呼ばれる場所が2ヶ所あります。ひとつは、嬬恋村鎌原の浅間焼け遺跡、もうひとつは渋川市北牧の黒井峯遺跡で、どちらも火山の怖さをまざまざと伝えています。

 今回は、黒井峯遺跡のある渋川市の子持地区を訪れ、静かな山里をのんびり散策することにしましょう。前橋市から渋川市へと車を走らせ、子持入口の信号から国道17号を逸れ、双(雙)林寺に向かいます。双林寺は、白井城主長尾景仲が子景信に命じて文安4年(1447)に開基し、江戸時代には上野、信濃、越後、佐渡の4ヶ国の曹洞宗寺院を統轄する大僧録に任じられた名刹です。広い境内の奥に佇む大きな本堂は端正で威厳があり、寺の由緒を感じさせます。七不思議が伝わる境内をひとしきり散策したあと、双林寺に車を置いて、黒井峯遺跡を目指して歩き始めます。中郷小学校の横を通り子持中学校方面に向かう途中、畑の向こうにぽつんと建つ小さなお堂があったので行ってみました。何の変哲もない小さな観音堂です。子持中学校の手前の急坂でも、赤い鳥居を見つけたので寄ってみると、鬱蒼とした木々の中、小さな石宮がぽつんとありました。地図にも載らないようなこんな小さな祈りの形にふいに出会うのも、散策の楽しみです。

黒井峯遺跡から榛名山を眺める

黒井峯遺跡から榛名山を眺める

 子持中学校の東側は平坦な農地が広がっており、校庭も含め周辺一帯が黒井峯遺跡になります。昭和57年に発見された黒井峯遺跡は、その後数次にわたり発掘調査が行われましたが、6世紀中頃の榛名山の最後の噴火(二ツ岳)による軽石が約2メートルも堆積していたため、古墳時代の集落が上質な状態で保存されていました。住居、家畜小屋、垣根、水道、祭祀場、畑、水田などの残された遺跡と、短期間のうちに降り積もった軽石からは、当時の人々の暮らしぶりと、火山災害になすすべもなくムラを捨てざるを得なかった無念さが伝わってきます。ところで、紀元79年に滅びたポンペイは、ナポリ湾と内陸部を結ぶ商業と農業の街として栄華を極め、総延長3キロの城壁の内側には、石畳の街路を挟んで石やレンガの堅牢な建物が並び、モザイクやフレスコの壁画により美しく飾り立てられていました。広場や神殿、公衆浴場、居酒屋、商店、円形闘技場、劇場などを擁した高度に文化的な街は、北にそびえるヴェスヴィオ山の噴火により、短時間で5メートルもの火山礫と火砕流に覆われ、千人とも2千人ともいわれる犠牲者を出し、壊滅的な打撃を受けました。以前、ポンペイを訪れたことがあり、発掘された街並みが2千年前のものとは思えないほど洗練されていたことに感銘を受けたのですが、保存状態の良さの決め手は、建築物が石でできていたためと思われます。一方、黒井峯遺跡の建築物は、木や草が主体だったことから、保存に限界がありますが、残された遺物から正確な復元が可能と思われます。残念ながら、発掘作業後に遺跡は埋め戻され、現在は案内板が立つばかりなのですが、貴重な国指定史跡ですので、復元等の整備が望まれます。埋め戻された跡地には菜の花が植えられ、訪れた4月下旬にはちょうど見頃を迎え、一面を黄色く染め上げていました。その壮観さに、「いちめんのなのはな」とリフレインする山村慕鳥の『純銀もざいく』が、思わず口をつきました。

 遺跡のある吾妻川の河岸段丘の高台を下り、住宅街の中をしばらく歩き、中ノ峯古墳に向かいます。中ノ峯古墳は、昭和54年、軽石採取作業中に発見されましたが、黒井峯遺跡同様、軽石に埋没していたことが奏功し、良好な状態のまま保存されていました。二ツ岳は6世紀に2回噴火しているのですが、6世紀初めの1回目の噴火のあとに古墳が作られ、6世紀中ごろの2回目の噴火で埋没したことが、調査により分っています。古墳の頂は経7メートルのきれいな円形の平坦地で、あたかも土俵のようです。すぐ近くには、小高い丘の上に若子持神社があります。かつて子持神社はこの地にあり、平安時代に子持山中腹の現在の地に移されました。長く延びる石段を登ると、社殿のある頂は尾根状に長く広がっており、木漏れ日の下コンビニで買った弁当を広げました。昭和14年建立の狛犬は、いかめしさとユーモラスさが同居している愛嬌のある姿をしています。

 明和3年(1766)に三国街道の道しるべとして刻まれた小さな石仏や、木立の中にひっそりと建つ稲荷神社を眺めながら南へ下ると、興福寺が現れます。入口にある賑貸感恩碑(しんたいかんおんひ)は、天明3年(1783)の浅間山噴火で大きな被害を受けた当時の北牧村の住民たちが、47年後に、被害から立ち直った教訓と救済措置への感謝の念を込めて建立したものです。再び南に下り、国道353号を超えると、北牧宿が現れます。北牧宿は、かつての三国街道の宿場町で、規模は小さいながら、古い建物が残っており、まっすぐに延びる道の中央には水路が走り、往時の雰囲気を伝えています。宿場内を進むと吾妻川に突き当り、広場を見ながら川沿いを東へ進むと、「杢の渡し」の碑が立っています。かつて北牧宿は、川の対岸の南牧と橋や渡し船でつながっており、南牧には杢ヶ橋関所がありました。353号を東に進み、大門川を渡る手前を北へ向かい、中ノ峯古墳の手前を東に折れ、左右に畑が広がる道を、のんびりと双林寺まで戻りました。

北牧宿

北牧宿

文/企画課 新井基之

●今回ご紹介したコース