群馬県信用保証協会

白石古墳群周辺の道

折々の散歩道

古墳文化の史跡を辿る

藤岡市

 群馬県には古墳が多く存在し、古墳王国として知られています。皆さんの住まいや職場、通勤路の近くにも、きっと古墳があるのではないでしょうか。私たち群馬県民にとって、古墳はとても身近な存在といえます。しかしながら、全国的に見てどのような順位にあるのかは、必ずしも明確ではありません。群馬県の公式データとしては、昭和10年の調査に基づき群馬県が発行した「上毛古墳綜覧」において、8,423基とされています。しかし、調査漏れやその後新たに発見された古墳も多数あり、「群馬新百科事典」(平成20年上毛新聞社刊)によると、実際は12,000基以上と推測されています。古墳について改めておさらいすると、3世紀半ばから7世紀末にかけて造られた、その地域を治めていた人の墓のことをいいます。大きな古墳は豪族のもので、豪華な副葬品が見つかることも多く、その数からすると、群馬県には豪族が大勢いたことが分かります。県は、今年度から来年度にかけて、約80年ぶりとなる古墳の総合調査を進めていますので、新たな調査結果がどのようなものになるのか、楽しみに待ちたいと思います。

 本連載では、これまでたくさんの古墳に出会ってきましたが、今回は「上毛古墳綜覧」に1,198基もの古墳が掲載されている藤岡市のうち、白石・上落合地区を訪れ、点在する古墳を辿りながら散策しましょう。藤岡市上落合にある七興山古墳の北側は、七興の門として、駐車場や展示施設が整備されていますので、ここに車を停め、散策を開始します。展示施設では、藤岡市内の文化財や、周辺の古墳群が紹介されています。その中に「毛野国白石丘陵公園基本計画図」が掲示されています。昭和57年に群馬県が策定した群馬県はにわ公園構想の候補地として、昭和59年に鏑川と鮎川に挟まれた段丘上に分布する白石古墳群が選定され、平成4年度には毛野国白石丘陵公園として都市計画決定、そして平成7年度には建設基本計画報告書が策定されました。これを受けて市教育委員会が平成9年度に策定したのが史跡整備基本計画で、展示されているのはこの計画図のようです。計画面積は、都市計画公園としては上落合、三ツ木、白石地区にまたがる30.1ヘクタール、うち史跡整備は11.8ヘクタールにも及ぶ広大なものです。現在は住宅地や農地の中に史跡や施設が点在している状況となっていますが、整備には長期的なスパンで取り組んでいくようで、公園の完成を楽しみに待ちたいと思います。七興の門のすぐ南側には、国指定史跡の七興山古墳が広がっています。6世紀前半に造られた全長145メートル、高さ16メートルの前方後円墳で、6世紀の古墳としては東日本最大級とされています。周囲には堀(周溝)が2重に巡っていて、遺構が一部残っています。古墳の中腹には無数の石仏が並んでいるのですが、無残にもほとんどの頭部が損なわれていて、廃仏毀釈運動の激しさを物語っています。すぐ東にある宗永寺には、宗永寺裏西塚古墳、宗永寺裏東塚古墳がありますが、現在は墓地となっており、見学はためらわれます。宗永寺裏東塚古墳から出土した石棺が、境内に展示されていて自由に見ることができます。2.4メートルの大きな石を刳り貫いたもので、身と蓋からなり、なかなか見応えがあります。

 南に向かって進んでいくと、やがて東側にふたつの小さな丘が現れます。北にあるのが平井地区1号古墳で、全長6.8メートル、6世紀後半に築造されました。平成3年度に発掘調査が行われ、出土した2本の装飾大刀(金銅装単鳳環頭大刀、銀象嵌円頭大刀)をはじめとする副葬品等は、国指定重要文化財となっています。南隣にあるのが皇子塚古墳で、全長8.3メートル、築造時期は平井地区1号古墳と同じ頃のものです。周囲は公園として整備されており、気持ちのいい空間が広がっています。すぐ南には藤岡歴史館(別名:藤岡市埋蔵文化財収蔵庫)が建っていて、市内各地の出土品を収蔵するほか、展示室、学習室とで構成されています。古墳から出土した展示品を眺めていると、往時の人々の暮らしぶりが浮かび上がってきて、あれこれと想像が膨らみます。藤岡歴史館から南に進むと、立派な丘陵が見えてきます。これは国指定史跡の白石稲荷山古墳で、5世紀前半に造られた全長175メートル、高さ13.5メートルの大きな前方後円墳で、頂上からは360度の眺望が楽しめます。昭和9年に帝室博物館により発掘調査が行われ、豪族の館を彷彿させる家形埴輪や多数の副葬品が出土し、これらは現在東京国立博物館に所蔵されています。頂上へ向かうアプローチの途中には、十二天塚北古墳と十二天塚古墳があるはずなのですが、案内板はなく、注意して見ていたもののどこにあるのか分かりませんでした。

平井地区一号古墳と皇子塚古墳

 丘陵を降りて、農地の中の道を進むと、猿田川にぶつかるので、川沿いの道を南に向かいます。やがて川に沿って右折して西に進むと、白石地区の鎮守、飯玉神社が現れます。社殿も神楽殿も木の香が漂ってきそうなほど新しく、昔から神楽舞を続ける地元の方々の誇りが宿っているように思えました。飯玉神社の西隣の民家には、7世紀後半に築造された菩薩塚古墳があり、案内板は立っているものの、見学はためらわれました。住宅街の中の道を西に向かうと、まもなく吉良上野介館跡が現れます。吉良家は、慶安3年(1650)から元禄16年(1703年)まで陣屋を構え、この地を治めていました。言い伝えでは、吉良若狭守の正室が伊香保温泉の帰路、この館で上野介を出産したとされ、現在は農地となっていて遺構はありませんが、産湯を汲んだとされる井戸は道路を挟んだ南側に残されています。北へ向かい、農地の中の道をしばらく歩き、古い農家建築がところどころに残る北原地区の住宅街を抜けて、七興の門に戻りました。

白石稲荷山古墳

文/企画課 新井基之

●今回ご紹介したコース