群馬県信用保証協会

田代地区の道

折々の散歩道

春爛漫の山あいの道を辿る

嬬恋村

 本連載では、月に1回、平日に散策に出かけています。平日の散策コースは、観光地であっても、商店街であっても、農村部であっても、概して人出が少なく、静かであるため、きょろきょろしたり、じっくり眺めたり、周囲の景観を存分に味わうことができます。石田千さんのエッセイ集『平日』もまた、東京都内の観光地や商店街を、平日に散策した様子を描いたものですが、観光ガイドのような実用的な要素はなく、また、何か面白いエピソードが散りばめられているわけでもなく、一見、とても捉えどころがないのですが、微にいり細にいり、といった表現がぴったりの観察眼と記憶力、そして、比喩を多用した詩のような文章の魅力に、読み進むにつれ、不思議な世界への旅行へと誘われる心地がしてきます。たとえば、十条の八百屋でのこと。「いちごのパックに、雨つぶがおちる。/198円は、どすぐろい。小ぶりで熟れきって、ゆるんだ匂いがする。280円は、しろいうち傷がある。498円は、きちんとならんでつめられ、まだ息がある。雨をしのいだ屋根つきのアーケードに、生から死までの赤がならんでいる。」あるいは、井の頭公園でのこと。「しだれ桜は緩慢な色づきで、スケッチしているおじさんは、木と紙をながめながめ、まっかな嘘に塗って、御殿山が日光いろは坂になっていく。」――当たり前の風景が、石田千さんの独特な視線と語り口によって、怖さや、寂しさや、可笑しさなどのスパイスがまぶされて、当たり前でなくなっていきます。名文家として知られた武田百合子さんのエッセイを読んだときに感じた、冷徹でありながらしなやなでふくらみのある文章と似た佇まいを、石田千さんの文章は、持っているように思います。

 さて、今回は、嬬恋村を訪れ、鳥居峠で信州と接し、群馬県の最西端にある、田代地区を散策しましょう。国道144号(長野街道)を長野原方面から西へと車を走らせ、嬬恋村役場を過ぎ、新田代橋の信号で国道144号から逸れて、北西へ向かいます。平成27年3月に閉校となった田代小学校の隣にある、田代コミュニティセンターに車を停め、歩き始めます。旧田代小学校は、明治7年に開校し、改称、独立等を経ながら、平成27年4月に西小学校、干俣小学校との合併により西部小学校が開校するのに伴い、閉校となりました。閉校して間もない校舎と校庭を眺めていると、子供たちの歓声が聞こえてきそうな気がします。南に向かって進むと、嬬恋消防団第三分団詰所の横に、銀色に塗られた火の見櫓が立っています。火の見櫓としての役割は終えながらも、「火災予防運動実施中」と書かれた大きな垂れ幕を括りつけられ、新たな役割を担わされてどこか誇らしげに見えます。T字路にぶつかった角地には、天保年間に建てられた「廿三夜」と刻まれた石碑が佇んでいます。二十三夜は、江戸時代に各地で行われた月待行事のひとつで、ほかに十五夜、十六夜、十九夜、二十二夜などがあり、特定の月齢の夜に、講中(仲間)が集まり、飲食をしたり経を唱えたりしながら月の出を待つ行事です。二十三夜は、中でも盛んに行われた女性の講で、子安講、子安観音の講とも言われ、塔の建立も盛んに行われました。

 左折して東に向かうと、間もなく左側に吾妻山神社が現れます。田代地区は、現在は嬬恋村の大字のひとつですが、江戸時代から明治22年までは田代村でした。吾妻山神社は、かつての村社で、境内では杉やケヤキが社殿を取り囲み、子供用の遊具も設置され、住民の憩いの場所になっていることが伺えます。左右に住宅と商店が立ち並ぶ道を、東に向かって歩を進めます。訪れたのは4月下旬だったのですが、山並みの樹々はまだ芽吹きを迎えていないものも多いものの、庭先にはとりどりの春の花々が咲いています。やがて左側に大山祗神社が現れます。大きな岩に小さな祠が祀られていて、樹齢推定4〜500年の大きなケヤキが、御神木となっています。大山祗神社は、愛媛県今治市に総本社があり、祭神の大山祗神は、日本書紀や古事記にも登場し、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」の意があり、山の神、海の神、酒造の神、田の神などの面も持ち、林業、鉱業の神としても崇められています。

大山祗神社

 大山祗神社の先のY字路を、左側に進み、急坂を登りきると、左側に、鹿沢ダムの長い堤防が見えてきます。土に覆われているため自然の堤防のように見えますが、一直線に伸びているため人工のものであることに気づきます。北に向かって少し進むと、ダム湖が見渡せる小さな空き地が現れます。鹿沢ダムは、四阿山の溶岩流の末端の窪地にできた湿地帯を利用して、大正15年に工事を開始し、昭和2年に完成しました。発電用貯水池は、群馬県初のダム湖で、田代湖の名称で知られています。ダムの堰堤は、高さ18.2メートル、長さ981.8メートル、湖の周囲は約6キロメートル、面積78ヘクタールで、1キロメートルほど離れた鹿沢発電所に送水されています。田代湖の周囲はほとんど観光開発されていませんが、北から東にかけて、嬬恋村名産のキャベツ畑が広がっています。

田代湖

 田代湖から戻り、先ほどのY字路を、今度は右側に進みます。トラックを改造した移動式スーパーが路肩に停まっていて、そのすぐ先にある八景食堂で、名物の牛もつ定食を食べました。新田代橋交差点にぶつかると、右に折れ、国道144号を進みます。新田代橋で吾妻川を渡った先は、人家は余りなく、まっすぐに伸びる道路の両側は、林や農地が広がっています。間もなくすると視界が開け、四阿山、糠塚山、村上山などの山並みを遠方に見ることができ、高原らしい風景を味わえます。ガソリンスタンドをふたつ通り過ぎ、JA嬬恋村田代のある田代交差点を右折して、吾妻川に架かる湯乃香橋という洒落た名前の橋を渡ると、T字路に突き当たります。右折して東に向かう道には、住宅や商店が立ち並び、水仙、木蓮、シャクナゲなどの花々が、春を謳歌している様子を眺めながら、田代コミュニティセンターまで戻りました。

文/保証統括部 新井基之

●今回ご紹介したコース