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平成27年7月2日(第28回)放送【1】 【プログラム】 |
プロローグ
司会 |
こんにちは。ご案内役の奈良のりえです。大企業トップへのインタビューなどをおよそ1時間にわたって放送しているチャレンジ・ザ・ドリーム。今日のトップインタビューは、農業の世界で元気あふれる活動を展開し注目を集めている昭和村の株式会社野菜くらぶの澤浦彰治社長です。野菜の有機栽培や農業の6次産業化、会社組織での経営などに取り組み、グループ5社で27億円を売り上げるという著しい発展を遂げています。また、県外への農場の拡大や農業での独立を目指す若者の支援など、従来にない取り組みにチャレンジしていて、まさに農業分野のベンチャー企業です。起業家としてのお考えや、農家としての思いなど、澤浦社長にお話を伺っていきます。また番組後半は、アニメ「ガンダム」にも登場しそうな人間が乗れるロボットをつくっている榛東村の榊原機械株式会社への訪問インタビューです。 |
トップインタビュー
株式会社野菜くらぶ 澤浦彰治社長
司会 |
株式会社野菜くらぶの澤浦彰治社長にFMぐんまのスタジオにお越しいただきました。澤浦社長、どうぞよろしくお願いいたします。 |
澤浦社長 |
よろしくお願いします。 |
司会 |
今日はストライプのシャツをお召しになっていて、何か好青年がそのまま抜け出してきたような感じで。 |
澤浦社長 |
ありがとうございます。青年って自分は思っているんですけれどもね、女房から「もう中年だ」って言われて、ちょっと若づくりで来ました。 |
司会 |
今日はどうぞ、フレッシュな話をたくさん聞かせてください。よろしくお願いいたします。 |
澤浦社長 |
はい、ありがとうございます。 |
グループ5社について
司会 |
社長は1964年生まれ、今年で51歳だそうですね。今、野菜くらぶの社長とご紹介したんですけれども、グループ会社も含めて5社あるんですよね。 |
澤浦社長 |
そうですね。今紹介していただいた野菜くらぶという会社は、農家の方が74名加盟していまして、その人たちが生産した野菜を販売する窓口業務をしている会社なんですね。それからグリンリーフという会社があるのですけれども、このグリンリーフが全ての母体になっています。私の父親が創業して、私が農家の二代目で今やっているんですけれども、有機コンニャクや、それから白菜、ブロッコリーなどを生産して、その生産したものを、自分の会社の中に工場がありまして、そこで板コンニャクやしらたき、冷凍野菜とか漬物にして、全国のスーパーさんや生協さん、そういうところに販売している会社です。それから四季菜っていう会社があるんですけれども、有機ほうれんそうとか、有機小松菜を専門で生産している会社で、今、新規就農者2名で、この会社の運営をしています。それから、サングレイスっていう会社なんですが、モスフードサービスさんと一緒に設立したトマトの生産農場なんです。静岡と群馬に農場があって、1年を通じてトマトを生産して販売をしております。それからビオエナジーっていう会社なんですが、この会社は、再生可能エネルギーに取り組む会社で、メガソーラーの経営や、木質燃料の製造や調達をする、そんな仕事をしている会社です。 |
農家から加工業への転換
司会 |
もともとは社長から今、ご紹介があったように、ご実家が農家だったということですね。 |
澤浦社長 |
そうですね。 |
司会 |
何をつくっていたんですか。 |
澤浦社長 |
当時は、コンニャクもつくっていましたけれども、アスパラとか、ウドとか、大根とか、養豚もやっていました。 |
司会 |
で、高校を卒業して、もうやはりおうちに入ろうというふうにすぐ決めていたんですか。 |
澤浦社長 |
もう農業をやるっていうのは、小学校のころからずっと思ってましたし、中学を卒業するときの作文にも、そういうふうに書いていました。 |
司会 |
なんかご自分で楽しいなと思ったきっかけなんていうのを覚えていらっしゃいます? |
澤浦社長 |
まず両親が農業に対してネガティブなことを言ってなかったですよね。「百姓はおもしれえ」「農業はおもしれえ」って言っていたから、面白いもんだと思っていました。 |
司会 |
そんな社長が、会社に入られて、おうちに入られてですね、変革の端緒というのは何だったんですか。そのころは普通に農家をしていたわけですよね。 |
澤浦社長 |
そうですね。昭和の時代は、両親と私と3人で、本当に典型的な家族経営の農業をやっていました。ちょうど昭和の時代が終わるころになると、ガット・ウルグアイラウンドというのがあったんですよね。米とか、牛肉とか、オレンジの、自由化をするとかしないとかっていう、そんな貿易交渉だったんですけれども。それと、コンニャクの相場の暴落というのがあったんですよ。コンニャク相場って、バブルのころってすごく高くなったんですよね。コンニャク御殿なんていうのがあちこち建ったり、そういう……。 |
司会 |
景気がよかったんですね。 |
澤浦社長 |
景気がよかった時代があって、そのときにうちは、「あ、コンニャクはもうかるんだから、もっと増やそう」と増やしたんですよ。で、増やしきったところで、今度はコンニャクの相場が暴落して。そんなことが幾つも重なって、そのまま同じやり方で農業をやっていても、これは将来ないなあということで、そのときに、何で農業を続けられない状況になっているんだろうというふうに思ったときに、よくよく考えたら、やっぱり自分で値段を決められないんですよね、農家って。農産物ってみんな、買う人が値段を決めて、生産者っていうのは生産するだけで値段を決められないと。これはもう、そんなことをやっていたら自分の将来はないなあと思って、値段を決められる農業をやろうって、そのときに思ったんです。 |
司会 |
値段を決められる農業ですか。 |
澤浦社長 |
はい。で、目の前にあったのがコンニャクイモだったんですよね。こんなにコンニャクのイモが安いのに、スーパーに売っている板コンニャクの値段、全然変わらないぞって。じゃあ板コンニャクにすればいいんだっていうことで、それでコンニャクの加工を始めたんです。 |
司会 |
ああ、そうですか。でも、そんなに簡単にできるものですか。まず、設備投資ももちろん必要ですし。 |
澤浦社長 |
そうなんですよ。そうなんです。農家でもそういうコンニャクづくりをしている方々がいましたので、見学に行かせてもらって、じゃあうちもそういう機械を入れなきゃならないなあって思ったんですけど、そのお金がなかったんですよ。 |
司会 |
一番大変な時期ですものね。 |
澤浦社長 |
そうそうそう。で、機械が買えなかったのがよかったんですよね。 |
司会 |
えっ、どうしてですか、それは。 |
澤浦社長 |
どうしようかって考えたときに、目の前で母親が鍋でコンニャクをつくっているわけですよね。それを見て、「あ、これでいいじゃん」っていうことで、それでミキサーを5台買ってきて、それでイモをすりながら、それで漬物桶を買ってきて、それで投資額なんて10万円ぐらいですよ。それなら金がありますよね、何とかね。それで、コンニャクをすって、四角いコンニャク、型を買う金はないですから、手で丸めて丸いコンニャクなわけですよ(笑)。 |
司会 |
ちょっとでこぼこしたような、手づくり感はバッチリですね(笑)。 |
澤浦社長 |
そうそうそう。バッチリなんだけど、それしかできない。もう悔しくても四角いコンニャクはできない。で、しょうがないなと。まあ、いいわと、これでやろうということでやって、近くのお土産屋さんとか、それからスーパーさんとか、卸し始めたんですよね。そうしたらそれが、ほかにないじゃないですか、そんなの。これがいいんだよっていうことで、扱ってくれるお店が増えていったんですよ。だから、あのときに中途半端にお金があって、機械を買って、で、四角いコンニャクをつくっていたら、売れなくて、今のうちの会社はないです。お金がないっていいですよね(笑)。 |
司会 |
もう、その部分は知恵なんですかね。 |
澤浦社長 |
そう。 |
司会 |
アイデアで。 |
澤浦社長 |
アイデア。 |
野菜くらぶ設立の経緯
司会 |
で、その後、次のステップとしては、社長はどのように進めていきましたか。 |
澤浦社長 |
コンニャクをそうやって直接お店に卸し始めて、いろんな人から紹介していただいたんです。「あ、これ、いいから」って、「あそこ、行ってみな」「ここ、行ってみな」って。で、そこで商談をしていたときに、あるお客さんから、「こんにゃくって農薬をたくさん使うんですよねえ」って言われて、そこはもう、農薬を使わない食品を販売している会社だったので、もう売りたい一心でね、「いや、使わなくてもできます」って言ったんですよ。 |
司会 |
え、今までやったことがないことをですか。 |
澤浦社長 |
そうそう、そうそう、そうそう。でも何となくできる可能性があるなというのは感じていたので、そういうふうに言ってきたんですが。で、帰ってきてから実際に畑で、本当に農薬を使わずに始めたんですね。 |
司会 |
でも、そんなにすぐできるものではないですよね。 |
澤浦社長 |
まあ、いろいろと、ネギを植えたり、いいと思うことは何でもやってみて。 |
司会 |
成功したんですか。 |
澤浦社長 |
それが成功して、「成功しました」って報告に行ったら、その会社、らでぃっしゅぼーやさんが、畑に確認に来たんですよ。で、見たところ、周りにいっぱい野菜があるじゃないですか。「あ、ここ、こんなに野菜ができるところなんですか。コンニャクができるんだったら、野菜も無農薬でできないですか」って言われて、それで始まったのが野菜くらぶなんです。 |
司会 |
野菜くらぶは、当初何人でスタートしたんですか。 |
澤浦社長 |
3人なんですよ。 |
司会 |
3人で。それは社長のほかは、どういった方がメンバーだったんですか。 |
澤浦社長 |
私の同級生と、それから同級生のお兄ちゃん。10人ぐらいに声をかけたんですよね。こういうので一緒にやらないかって10人ぐらいに声をかけたんだけど。 |
司会 |
どうでした? |
澤浦社長 |
集まったのは3人だったんです。で、どういう人が集まったかというと、もう農業をやめようっていう3人が集まったんですよ(笑)。言い方は悪いけど、「もう、ちょっと市場に出荷していても、農業じゃ食っていけないから、今年で俺、やめるんだ」っていう人とか、長野に研修に行って帰ってきたら昭和村――今は昭和村、広い農地ですけれども、当時はまだ狭い農地がいっぱいあったので、そこで農業をやっていてもね、長野と同じようにはできないって。もう農業には夢がないっていう、そういう友達と先輩と、だから背水の陣で。 |
司会 |
でも、開き直ると結構できたりするものですか。 |
澤浦社長 |
いや、後がないっていいんですよ。みんな、後があるから、いろんな方向を見たがるんで。 |
司会 |
そうですね。守りに入ってしまいますものね。 |
澤浦社長 |
そうそう。後がないと、見るのは前しかないじゃないですか。 |
司会 |
そのときというのは、もう法人としてスタートしたんですか。 |
澤浦社長 |
いやいや、最初は個人なんです。だから野菜くらぶも最初は、澤浦農園グループっていう、そういう名前だったんです。で、平成8年に、今度は法人化するときに有限会社野菜くらぶってなって、その後、平成14年かな、株式会社野菜くらぶってなっていったんですね。 |
司会 |
そんな中ですね、事業拡大の転機というのは、どんなときに転機が訪れましたか。 |
澤浦社長 |
ちょうど野菜くらぶが仲間も徐々に増えてきて、7名ぐらいになったときですかね、レタスの生産が増えてきて、販売できる先を増やしたいっていう、そんな仲間内で話があったんですね。そのときにたまたま、日本農業新聞っていう新聞があるんですけれども、その中にモスフードサービスがハンバーガーに挟む野菜を自社仕入れに切り替えると。有機野菜に切り替えるので、そういうものを生産している農家を今、探しているっていう、そんな記事があったんです。それで、モスフードの本社に電話をして、そこに行って、いろいろと話をして、それからのつながりになったんですね。 |
司会 |
それから、機械づくりもとてもお得意だというふうに聞いていますが、それが実はビジネスにも生かされているそうですね。 |
澤浦社長 |
そうですね。野菜くらぶでレタスをいろいろなところに送っていて、モスフードさんから「沖縄に送ってください」って言われたんですよ。で、沖縄に送ったレタスが全部腐っていたんですよ。そのときに、「やっぱり真空冷却器がないと無理なんですね」って言われて、じゃあ真空冷却器を導入しようと思って、メーカーにいろいろ当たったら、すごく高くてね、自分たちが買える価格じゃないんですよ。でも真空冷却器なんて、あんなの真空にすりゃいいんだろうっていう単純な発想から、そんなんだったら自分でつくってやるっていうことで、八重洲ブックセンターへ行って、真空とか、そういうものに関してのいろんな本を買ってきて、片っ端から読んで、近くの鉄工所の人に、その真空の釜っていいますか、箱をつくってもらったり、冷蔵器メーカーの人にいろんな仕組みをつくってもらったり、いろいろアイデアをくっ付けて真空冷却器をつくったんですよ。 |
司会 |
うまくいったんですか。 |
澤浦社長 |
うまくいくはず、なんですよ(笑)。1,000万円というお金をかけたんですから。 |
司会 |
1,000万円ですか。 |
澤浦社長 |
ええ。で、仕上がって、さて、やるぞと。その冷蔵庫の中に22度ぐらいのレタスを入れてスイッチを入れたら、機械が回り始めたでしょう。で、温度計が23度に上がっていったんですよね。血の気が引くっていうのはこういうことかなと思って、「ありゃあ」と思って……。 |
司会 |
1,000万円が……。 |
澤浦社長 |
そうそう。それである真空度になったら、すうっと下がってきて、それで4度になったんです。 |
司会 |
勝負師ですね、社長。 |
澤浦社長 |
いやいや、勝負師でも、結構堅実にやっているつもりなんですけどね、周りの人はそんなふうに思われるんですかね(笑)。それで沖縄に送れるようになったんですよ。 |
司会 |
それでは、まだまだお話を聞きたいところなんですが、ここで1曲、お届けしたいと思います。社長に思い出の曲を選んでいただきました。岡本真夜さんの『TOMORROW』だそうですが、これはどうして心に残っている曲なんでしょうね。 |
澤浦社長 |
そうですね。コンニャクをつくり始めて、東京都内のスーパーさんにも卸すようになって、ちょうどコンニャクを植えている最中ですね、午後一番ぐらいかな、そのスーパーの専務さんから、「売ってるコンニャクが溶けてるよ」っていう電話がかかってきて、「ちょっとこれから東京へ行ってくる」って、手と顔だけ洗って行ったわけですよ。それで行って、見たらもう、溶けているわけですね。で、「すみません」っておわびしたんですけれども、もうこの専務さんが「いやいや、よく来てくれたな、そんな遠くから。もう来てくれたのか。まあ、おまえのところはいいものをつくっているから、今後気を付ければいいから、ご飯食べにいこうよ」ってご飯食べに連れていってもらった。で、そのご飯、食べながら、いろいろその専務さんが、スーパーを創業した当時のいろんな苦労話とかそういう話を聞かせてもらって、「じゃあ、どうもありがとうございました。今後、気を付けます」って帰って、東京の首都高を走っていったときに、ラジオを聞いていたら、パーソナリティっていうんですかね、その方がね、「東北から出てきて、この大都会で一生懸命頑張って、ようやくつかんだそのパーソナリティの仕事を1年間やってきたけれども、今日、最後の放送です。東京に来たときに、心折れそうなときにね、この歌を聞きながら頑張ってきました」っていう、その曲なんですよね。もう、涙、ぽろぽろ。 |
司会 |
なんか今、ご自身の大変なね、クレームがあってどうしようというところから、最後に握手を交わして帰ってきたっていう……。 |
澤浦社長 |
そう。それとこの曲がすごくダブってね。 |
司会 |
はい。それではお届けしましょう。岡本真夜で『TOMORROW』。 |
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