信用保証協会とは三つの支援保証利用のご案内コンプライアンス・個人情報情報公開
保証協会へのアクセス制度検索ご相談窓口よくある質問リンク集
群馬県信用保証協会トップページ > チャレンジ・ザ・ドリーム >


平成27年12月3日(第33回)放送【1】

【プログラム】
●トップインタビュー:医療法人社団美心会 黒澤功理事長
●チャレンジ企業紹介コーナー:株式会社ダンボワークス

プロローグ

司会

 こんにちは。ご案内役の奈良のりえです。大企業トップへのインタビューなどをおよそ1時間にわたって放送しているチャレンジ・ザ・ドリーム。今日のトップインタビューは、高崎市の黒沢病院などを運営する医療法人社団美心会の黒澤功理事長です。黒澤理事長は病院勤務を経て30代で開業。院外処方箋の発行や、脳ドック、ISOの取得など、その時々で県内の病院では初めてとなる取り組みを行ってきました。最高の総合医療サービスをテーマに掲げていて、去年、病院を新築移転、たゆまぬ前進を続けています。医師、そして新たな挑戦を続ける経営者として、お話を伺っていきます。番組後半は、昨年度、群馬県のビジネスプランコンテストで最優秀プランに選ばれた株式会社ダンボワークスへの訪問インタビューをお送りします。

トップインタビュー

医療法人社団美心会 黒澤功理事長

司会
高崎市の黒沢病院などを運営する医療法人社団美心会の黒澤功理事長に、FMぐんまのスタジオにお越しいただきました。どうぞよろしくお願いいたします。
黒澤理事長
よろしくお願いします。

医師を志したきっかけから医局長時代まで

司会
プロフィールを私のほうからご紹介いたしますと、旧中里村、現在の神流町のご出身で、昭和16年生まれの74歳です。岩手医科大学を卒業後、群馬大学泌尿器科の医局に入り医局長を務めた後、富岡総合病院勤務を経て1977年、昭和52年に高崎市中居町で開業されたそうですが、黒澤理事長、なぜ医師を志したのですか。
黒澤理事長
はい。私の出身地の中里村には当時医師がおらず、私は男7人女2人の9人兄弟の農家の末子なんですけど、長女が盲腸になりまして、リヤカーに乗って高崎の病院まで手術に行くという様子を見ていまして、私も医師になって人助けをしたいというふうなことを考えて、医師を志しました。
司会
なるほど。そして、岩手医科大学に進みまして、卒業後は群馬大学の医局に入られたそうですが、これはどうしてですか。
黒澤理事長
はい。ちょうど私が卒業試験のときに、親父が倒れまして、1年の間には亡くなるだろうというふうなことがあったので、当時、まだインターンがありましたから、インターンだけ群馬大学でして、また岩手医大に帰って、そのときは脳神経外科の大学院に合格していましたので、そこに行く予定だったんですね。そんな事情がありましたけれども、幸い親父が生き延びてくれたので、群馬大学に残ることになりました。
司会
群馬大学では、どのようなことをなさっていたんですか。
黒澤理事長
泌尿器科の医局に入りました。まあ、親がそんな状況だったものですから、給料がもらえましたし、助手の席が一つ空いていまして、幸い私を選んでもらえたので、そこの教室に入るということになったわけです。
司会
そこでは、医局ではどのようなことをされていましたか。
黒澤理事長
腎臓、膀胱、前立腺などの勉強をするわけですけれども、内科的なことや、手術、外科的な治療もしていました。一方で、自分の研究としては、腎臓移植とか、透析とか、そんなことをしていました。
司会
そこでの思い出とか、鮮烈に印象に残っていることなどはございますか。
黒澤理事長
そうですね、腎臓移植の勉強をするときに、保健所から週に2匹、犬をもらいまして、大体1週間、毎朝、夕と、牛乳とか食べ物をあげていくと、なついてきまして、そのなついてきたところを、腕をなでてやって、腕に静脈注射をして、麻酔をかけて、犬の腎臓を取り出したり、また植え付けたりというふうなことをした。それが今、人間の手術にも非常に役立っていたので、やはり若いときにたくさん犬の移植の練習をして苦労したことが、よかったなあというふうに思っています。
司会
透析も、理事長、研究されていたんですか。
黒澤理事長
そうですね。腎不全になりますと、その当時は今のがんの末期と同じように、「治療の方法がありません」と言って、皆さん、残念ながら亡くなっていったわけですね。で、これを救う方法として、血液透析というのができたわけです。私が透析を始めたころはまだ研究の段階で、なかなか人間にするというところまでいっていなかったのですけれども、病棟に入院している患者さんたちが、「先生、やってくださいよ」と言うわけです。「実験の段階でできません」と言うと、「死んでもいいからやってくれ」とか、皆さんが言うわけですね。まあ、そうはいっても、なかなかできないという非常に苦しい思いをしていたんですけれども、まあそういう中で、だんだん1年、2年すると、できるようになってきたと。
司会
その後、理事長は開業されるわけなんですけれども、最初から開業というのは目指していたんですか。
黒澤理事長
国立大学の助手の席、お金がもらえる席というのは決まっているわけですね。そういうことを考えていると、私はこのままここにいて教授になれるのかなと。なれないんだったらば、やっぱり後進に道を譲らなくちゃいけないと考えて、私は、どちらかというと、研究しているよりは、人間を助ける、病気を治す、そっちのほうが好きだったので、やはり臨床の道を選んでいこうというふうに思ったわけです。
司会
ただ、開業するとなりますと、もちろん資金面もやりくりをしなくてはいけませんよね。
黒澤理事長
そうですね。まず開業するためには土地がないといけない。当時、銀行も土地がなければお金を貸してくれなかったですので、まず120坪の土地を買いました。それ以上買うと、元金が1円も減らず、いつになっても利息を払っているだけで駄目だと。昼間は30日のうちの29日働いて、夜は30日の22日当直をして、それで120坪の土地を、元金をどうにか払って、そこでやっと銀行からお金を貸してもらえるということになりました。
司会
今、さらっと理事長、おっしゃいましたけど、ほとんど1カ月間、朝から、それこそ夜中まで働きっぱなし? 次の日の朝までと言っていいんでしょうか。
黒澤理事長
そうですね。ですから、8日間……。
司会
ええっ、どれぐらい続いたんですか。
黒澤理事長
5年続きました。
司会
5年間も。
黒澤理事長
はい。1ヶ月に22日も当直していると、研究が遅れますから、当直がない日があると、だいたい12時ぐらいに家に帰ってきて、飯食って、また研究室へ行くと。そんなことをしていましたので、長屋の人たちからは、「黒澤さんはダンプの運転手さんですか」と妻などは言われていたようですね。
司会
そして、群馬大学で医局長を務めた後なんですが、富岡総合病院でご勤務をされていますが、ここではどのようなことをされていたんですか。
黒澤理事長

そうですね。そのころになりますと、もう透析も一般的にできるようになり、長く生命を保つことができるようになっていました。富岡総合病院には透析の機械が6台ありまして、そのときは群馬県では一番の数だったのですが、多くの人のためになりたいという決意を持って、医局長を辞めて、富岡総合病院に行ったわけです。

黒沢医院を開業し、黒沢病院へ

司会
そして、いよいよ1977年に開業なさったわけですけれども、最初は設備はどのぐらいでスタートしたんですか。
黒澤理事長
透析をしたい人が待っていますので、まあ、小さい建物ですけれども、その中に10台、透析の機械を入れて始めました。
司会
そうですか。富岡総合病院でも6台だったんですよね?
黒澤理事長
はい。
司会
それを理事長は、スタートから、もう10台入れたんですか。
黒澤理事長
そうですね。
司会
病床は幾つぐらいあったんですか。
黒澤理事長
病床は7床です。
司会
7床。当初の様子というのはいかがでしたか。
黒澤理事長
そうですね。昔、どんどん人が入ってくると建物が膨らんでくるという漫画があったんですね。本当に小さい建物の中に、1日で400人ぐらい患者さんを診たんですが、そんな感じでした。
司会
400人。
黒澤理事長
患者さんたちが廊下で、直立不動で立っていて。2階に行く階段におひなさまのように座っている。かえってこれじゃあ病気になっちゃうだろうと思うぐらい、本当に申し訳ないという気持ちで診ていたんですけれども、そういうことがありまして、まだ群馬県ではどこもしてなかったんですけれども、院外処方箋というのを始めました。薬の名前を紙に書いて、患者さんに薬局に持っていってもらって薬をもらうと。もちろん国も院外処方箋を勧めていたわけですけど、それをすると患者さんが減っちゃうんで、どこの医療機関もできなかったわけですけれども、まあ、これを始めました。
司会
そして、黒沢医院開業から8年後に黒沢病院となっていますけれども、理事長、これ、医院と病院の違いというのは、どんなところが挙げられますか。
黒澤理事長
そうですね。まず医院というのは、医師が1人でできるわけですね。病院というと、医師が最低3人以上必要になります。
司会
3人以上。
黒澤理事長
ですから、これはもうなかなか大変なことになるわけですね。私も群大の泌尿器科出身では初めて、始めた病院ですからまず教室のほうで、民間病院に医者を出す、出さないというところから討議が始まりまして、先輩だから、どうにかやってもらおうというところで、2人の医師を派遣してもらって、3人の医療機関で始めたのが原点ですね。
司会
規模とかも、やはり違ってくるんでしょうか。
黒澤理事長
規模は、病床が20床以上というところで病院になります。そのほかに、もちろん放射線技師、薬剤師、検査技師とか、いろんなスタッフをそろえないといけないというところがありまして、なかなか病院というのは厳しいハードルがあるわけです。
司会
どうして病院にしようというふうに理事長は思われたんですか。
黒澤理事長
やはり狭くて、狭くて、もう本当に入るところがない。でも、患者さんはどんどん増えてくる。近所の住民からは「もっと大きくしてくれ」「病院にしてくれ」と。「土地なんか、うちの土地をタダで貸すから」とか、そう言ってもらいまして、地域の皆さんにお願いをされて病院にしたというふうな形ですね。
司会
その8年というのは早かったですか。
黒澤理事長
いや、早いとはとても言えないですが、早いとも思うし、何とも言えないような8年間ですね。1人で365日、24時間やった日が5年間ありました。というのは、7床の入院患者さんがいますから、初めの5年間は本当に24時間365日ですね。で、6年目にやっと、月に1回、土曜日の6時から日曜日の6時まで当直医を頼みまして、その日だけ、6年目から1晩だけ自由になれたということですね。
司会
ここまでは幼いころから、そして開業、さらには医院から病院へとなっていったお話を伺いました。このほかにも数々の新しいことに挑戦していて、それらのこともお聞かせいただきたいと思うんですけれども、その前に、ここで1曲お届けしたいと思います。理事長から今日はリクエストを頂きました。『青い山脈』ですが、これはどのような思い出の曲ですか。
黒澤理事長
はい、これは非常に勇気の出る、希望の沸く、そして日本で一番歌われている歌ということになるわけですね。どこの国に行っても、スナック等で歌いだすと、どこからか日本人がいっぱい出てきて、ロサンゼルスに行ったときなどは、本当に50人ぐらいで肩を組んで歌ったようなこともあります。まあ、本当に一番日本人が好んで歌っている歌だというふうに思っています。
司会
それではお届けいたしましょう。藤山一郎、『青い山脈』。

チャレンジ・ザ・ドリーム目次



群馬県信用保証協会 〒371-0026 群馬県前橋市大手町3-3-1 TEL 027-231-8816