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平成28年8月4日(第41回)放送【1】

【プログラム】
●トップインタビュー:株式会社ヤマト 新井孝雄会長
●保証協会からのお知らせ:女性向け創業セミナー「シルキー クレインpresentsガールズ創業カフェin富岡」の参加者募集について
●チャレンジ企業紹介コーナー:株式会社Regal Guitar Instruments

プロローグ

司会

こんにちは。ご案内役の奈良のりえです。大企業トップへのインタビューなどをおよそ1時間にわたって放送している「チャレンジ・ザ・ドリーム」。今日のトップインタビューは、建設製品を企画・設計から、ものづくり、オペレーション、メンテナンスまでトータルで提供することを目指す前橋市の株式会社ヤマトの新井孝雄会長、75歳です。ヤマトは社員およそ800人の会社で、関東を中心に東北や関西まで、支店・営業所を設けている会社です。新井会長は昭和40年(1965年)に現在の前橋工科大学の前身の短大を卒業して入社。現場を経験した後、40代半ばに役員となり、60歳で社長に就任しました。昭和から平成と世の中が移り変わる中で、会社のかじ取りに携わってきた新井会長に、変化への対応や会社運営に対するお考えを伺っていきます。そして番組後半は訪問インタビュー。20代の若者が立ち上げたギターメーカー、前橋市の株式会社Regal Guitar Instrumentsを紹介します。

トップインタビュー

株式会社ヤマト 新井孝雄 会長

司会
株式会社ヤマトの新井孝雄会長にFMぐんまのスタジオにお越しいただきました。よろしくお願いします。
新井会長

よろしくお願いします。

司会
まず初めに、会社のことを少し伺いたいのですが、ヤマトの前身は、理化学研究所などと同じ理研グループの会社だったそうですね。
新井会長
そうですね。それは入社してから知ったことなんですけれども、戦争が終わって、軍事産業は解体され、そのときに皆さんが職場を失ってしまったんですね。そのとき、工作機械の設計に携わった人たちが興した会社というふうに聞いております。ですから、最初は機械屋さんがやる仕事で、田舎のほうへ行くと、火の見やぐらというのがありますけれども、そういうものをつくったりだとか、工場設備のコンベアラインをつくったりだとか、工作機械を製作すると、そういうところからスタートした会社だと聞いております。
司会
ヤマトといいますと、ビルの建設などで空調や水処理設備の設置などを行う会社というイメージがあったんですけれども、実際は会長、どうですか。
新井会長
そうなんですよね。常に市場の変化の中で、そのときどきに対応してきた会社であります。具体的には、1950年代は水道施設、この時代は、まだ日本の上水道の普及率が50%ぐらいだったんですね。そのときから手がけてきました。そして、また農家の牛乳の冷却。今のように大規模の農家じゃないですから、個別の農家の冷却装置をつくるとか、魚屋さんとか肉屋さんの冷蔵庫の機械設備をつくっていたということでございます。そして、流通革命が起きまして、食品スーパーがどんどん日本の社会に普及する中で、当社はそれらの仕事が増えてきたということです。そして、1975年ぐらいから市民生活の質が上がってきますと、ビル空調事業が大きく成長してきました。現在その売上が、大体70%ぐらいでございます。残りが建築製品と、プラントをワンストップで提供する事業で30%ぐらいとなっています。
司会
世の中の流れに合わせて、手がけるものもどんどん、どんどん増えていったということなんでしょうかね。
新井会長
そうですね。やはり変化に対応しないと、企業は生き残れない。それを諸先輩の方々がずっと進めてこられた会社だというふうに感じております。

入社

司会
新井会長は昭和40年(1965年)に入社されたそうですけれども、会社選びのポイントは、どんなところを目を付けてここにしようと思われたんですか。
新井会長
当時の柴山社長さんとお会いしたときに、何となくこの会社は自由に仕事ができそうだなということを肌で感じまして、入社した次第でございます。
司会
当時の会社の様子ってどうでしたか。
新井会長
日本の経済が前年の証券不況から立ち直り始めて、少し社会に明るさが見えてきた時代です。当時の当社の事業内容は、上下水道が3分の1ぐらい、冷蔵が3分の1ぐらい、ビル設備が3分の1ぐらいを行っていた企業でありました。
司会
将来、経営にかかわるとか、社長を目指そうといったお考えは、新井会長、この当時というのはどうでしたか。ありましたか。
新井会長
いやあ、そんなことは全くなかったですね。何しろ、自由に仕事ができれば自分の人生はいいんじゃないかということだけを思っていただけです。
司会
若いころ、20代、30代のころの仕事の内容とか、当時はどんなことを考えていたか、このあたりもぜひ、今日は教えていただければと思うんですけれども。
新井会長
当時、労働人口が日本は非常に豊富だったですから、その中で、建設業は労働集約産業として成り立っていたのです。いつも人が作業するのを、少しでも機械に置き換えられないかということを考えていました。それはなぜかというと、夏は暑いですよね、それで冬は寒いですよね。そういう厳しい自然環境の中で労働するのは、改善すべきことじゃないかなというふうに考えていました。できるだけ設計の段階でそういうことを織り込んでいこうということを常々考えて、仕事を進めていました。たまたま私を指導してくれた方から、製鉄所の銑鉄が流れ出ているところで、上半身裸で働いている人たちを、その労働から解放することを考えろ、というようなことも言われまして、その時の影響がかなりあったかなというふうに考えております。
司会
問題を解決するような、そんな機会をつくっていけたらなんていうことを、そのときに。
新井会長
そうですね。そういうことが潜在的にあったかなというふうに思います。
司会
自由に仕事ができたとおっしゃったんですけど、どんなお仕事を自由になさったんですか。
新井会長
通常ですと、会社というのは組織ですから、組織で決められたものからテーマが決まってくるということなんですけれども、そうではなくて、自分自身から発案をしていって、それを実行するというような形にしました。例えば配管加工というのは、天井の裏でパイプをつないだりだとか、狭いピットの中で溶接の煙を吸いながら作業をしていたり、そういうことをしていたんですね。ですから、そのことを、100%はできないんですけれども、20%でも、30%でも、現場作業から工場へ持ってこようということで進めていました。
司会
確かに工場である程度できれば、現場でその過酷な作業が軽減できますよね。
新井会長
そういうことです。その事は労働環境を改善したことになるんですね。

役員に就任

司会
昭和62年(1987年)に40代半ばで取締役になられたそうですよね。
新井会長
この時代は、まだ結構年功序列で人事が行われている会社だったんですけれども、柴山社長から「役員になって経営をやったらどうか」というふうなことを言われて、私自身は「これで自由が失われるな」というふうに思った次第だったんです。でも、「チャレンジして、やってみるか」という形で引き受けたんですね。社会の環境は、経済面で85年にプラザ合意がされて、日本の経済も世界の中でかなり認められている時代に入ってきたのかなと感じていました。為替は円高が進み、経済が名目的に大きく成長した事で、私をはじめ多くの一般市民も、バブル経済に酔っていた時代かなというふうに考えていました。当時、私自身も開発だとか、投資に積極的にかかわった仕事をさせていただいたというふうに感じております。それでも、当社は柴山会長以下、役員が、金融業を営んでいるんじゃなくて、「ものづくり」をやるということですから、その基本的な本質は忘れずにやっていこうということで経営を行っていました。具体的には、やはり消費者が満足するものをつくっていこうよということをずっと進めてきました。
司会
はい、それではここで1曲お届けしたいと思います。今日は荒井由実の『卒業写真』を選んでいただきましたけれども、これは会長、どのような選曲でしょうか。
新井会長
非常に人間味があっていいなという感じで選曲させていただきました。
司会
それではお届けいたします。荒井由実で『卒業写真』。

社長に就任

司会
副社長などを歴任して、平成13年(2001年)12月に社長に就任されましたけれども、ちょうど今から、会長、15年前になりますか。
新井会長
そうですね。ちょうど15年たちましたですね。
司会
そのころの心境などって、今でも覚えていらっしゃいますか。
新井会長
当時の経済の背景は、バブル経済が崩壊をし、そして、デフレ経済に大きく変わったわけです。デフレになりましたから、マーケットは縮小してくるということですね。建設市場を具体的に見ますと、平成8年、84兆円あったマーケットが、平成13年、私が社長に就任した時、ちょうど63兆円まで減ってきました。そして、ボトムが平成22年、42兆円まで落ちまして、現在、2015年に48兆円まで膨れ上がってきたというような背景があるんですけれども、このデフレ経済のとき、企業がどうやって経営を行うかは、財務の健全化ということが絶対的な条件になってくるんですね。もう一つはやはり、市場に対しては「ものとサービス」で差別化するということです。そのために、ものづくりはシステムづくりだという思考で、システムづくりに取り組み、ずっと現在まで進めている次第でございます。
司会
ものづくりはシステムづくり。具体的にはどういうことですか。
新井会長
簡単に言うと、例えばものをつくるときは、市場のニーズの仮説を立て、どういうものならばお客さまに買っていただけるだろうか。それをどのようにつくろうという形になってきます。つくるときに、これは自社だけではできないですから、サプライヤーを含めたり、いろいろのメーカーさんからパーツを納入していただきます。そこをシステム的に動かさないと効率化できないんですね。それがシステムづくりの基本かというふうに考えております。

ビオトープ園の開園

司会
話は変わりますが、社長就任の1カ月前にビオトープ園が開園していますよね。どういったことが目的で、このとき開園したんでしょうか。
新井会長
もともと、環境という言葉がキーワードになったビジネスを当社では展開していましたので、環境と言うと非常に広い言葉なんですけれども、その中の一つとして、自然環境を保護しながら生態系を守っていくというのが、企業が社会に貢献をすることじゃないかと思っています。そのときに、市民と一体となってやらなければ駄目なんじゃないかなということで、早くからビオトープ園は市民に開放しながら進めてきた次第でございます。
司会
今もそうですよね、開放していただいて。
新井会長
そうですね。
司会
そのころというのは、そういったビオトープ園というのは、もうあったんですか。それとも結構はしりですか。
新井会長
言葉はありまして、はしりって言えばはしりでしょうね。当社の場合は、そんなに広い敷地を取ってあるわけじゃないんですけど、近くのお母さん方が子どもさんを連れてきたりとか、そういう点では市民と一体となるということを非常に実感した次第ですね。
司会
生態系を学ぶという意味でも、すごく自然が近くにあっていいですよね、あの空間というのは。
新井会長
そう言っていただけると非常にありがたいんですけど、技術的にも、当社の技術がかなり入っています。
司会
例えばどういうふうに入れているんですか。
新井会長
あそこに小さなせせらぎが流れていますけれども、あれは地下水をくみ上げているんですね。地下水って一般に非常にきれいだというふうに見えるんですけれども、水質的には、この前橋の近くというのは非常に鉄分とマンガンが多いんですよ。鉄とマンガンが空気中の酸素に触れると、イオンで溶けているものが酸化し固形物化してきて、石が赤くなったりとか、黒くなったり、あれが現象なんですね。そういうようなことを当社の技術として、経済的にはもっと安い技術もあるんですけれども、生物を使って少しでも除去してやろうというような技術を今、使っております。

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