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平成28年11月10日(第44回)放送【1】

【プログラム】
●トップインタビュー:サンヨー食品株式会社 井田純一郎 社長
●チャレンジ企業紹介コーナー:PIZZERIA PESCA!

プロローグ

司会

こんにちは。ご案内役の奈良のりえです。大企業トップへのインタビューなどをおよそ1時間にわたって放送している「チャレンジ・ザ・ドリーム」。今日のトップインタビューは、「サッポロ一番」でおなじみのサンヨー食品株式会社の井田純一郎社長、54歳です。サンヨー食品は、1953年(昭和28年)に前橋市内で乾めんの製めん会社として創業。その後、即席めんにも進出し、ロングセラーの「サッポロ一番」を開発して業績を伸ばしました。アメリカや中国、アフリカにも関連会社があり、連結の売上高はおよそ1,700億円、従業員数はおよそ6,200人にのぼります。井田社長は18年前、会社を創業した先代の社長、父・毅さんの後を継いで、36歳の若さで社長に就任し、サンヨー食品のかじ取りをしてきました。井田社長に経営のビジョンなどを伺っていきます。そして番組後半は訪問インタビュー。前橋市のイタリアンレストラン「PIZZERIA PESCA!」をご紹介します。

トップインタビュー

サンヨー食品株式会社 井田純一郎 社長

司会
サンヨー食品株式会社の井田純一郎社長にFM GUNMAのスタジオにお越しいただきました。よろしくお願いします。
井田社長

初めまして、サンヨー食品の井田です。今日はよろしくお願いいたします。

創業当時の様子

司会
サンヨー食品は、井田社長のおじいさま、井田文夫さんと、お父さま、毅さんのお二人で昭和28年に創業されたそうですね。
井田社長
井田家は群馬県の佐波郡玉村町で、江戸時代中期から300年以上続く造り酒屋、井田酒造を営んでおりました。私の祖父・井田文夫は、7人兄弟の6番目だったので、家業を継がずに独立して、前橋で酒の販売をする、泉屋酒店を開業しました。当時、私の父・井田毅は3歳だったそうです。祖父・井田文夫には大変に商売のセンスがありまして、営業力は抜群、事業は拡大いたしました。太平洋戦争末期の前橋空襲で、泉屋酒店の家屋すべてが消失をするという事態もありましたが、終戦後は一から事業を再開して、戦後の日本の復興とともに酒類販売事業は急成長して、最終的には北関東最大級の問屋にまで成長しました。しかし、父・井田毅は、泉屋酒店での成功では満足をせず、加工食品事業への進出を決断したのです。そこで私どもの親戚が持っていました乾めん工場を引き継いで、富士製麺という会社を設立して、乾めんの製造業に進出をいたしました。ただ、進出をしたものの、乾めん製造業にはライバル企業も大変多くて、価格競争が激しいことから、父・毅は、また新たな事業を模索したわけです。そんな中、父・毅は新聞記事に、関西で販売された即席ラーメンがブームになっているという記事を目にしたのです。
司会
ええ。
井田社長
即座に即席めんの将来性を直感して、参入を決意しました。祖父・井田文夫は、最初は反対をしていましたが、父の情熱に負けて、最後は即席めん事業への参入を了解いたしました。
司会
ものすごいスピード感ですねえ。
井田社長
戦後の復興期は今で言うベンチャー企業のような新しい事業がたくさん興って、そういったことにチャレンジをする若者も増えていたようですね。
司会
なるほど。
井田社長
そして即席めん事業への参入をするにあたり、社名をサンヨー食品に変更したのです。
司会
はい。
井田社長
社名のサンヨー食品は、太平洋、大西洋、インド洋を意味しておりまして、中小企業であった当時に、三つの大きな海をまたにかけるようなスケールの大きな会社を目指したいという志を込めたそうです。
司会
なるほど、今で言うグローバル企業を目指してということでしょうか。
井田社長
ただ、当時は社員は十数名だったものですから、壮大な社名を付けたときに、社員は皆びっくりしたでしょう。
司会
そうですね。でも、夢はやはり社長、大きいほうがいいんですね。
井田社長
そうですね。やはり「チャレンジ・ザ・ドリーム」、夢は大きくですね。
司会
ありがとうございます。
井田社長
サンヨー食品の社内での祖父・文夫と、父・毅の役割分担は、祖父・文夫が社長となって営業と外交を受け持ち、そして父・毅が開発・製造・経理など、会社のかじ取りを受け持つ分業体制を取りました。私の父は、二代目の社長ではあるのですが、実質的なサンヨー食品の創業者と言える存在です。

「サッポロ一番」ができるまで

司会
そのサンヨー食品といいますと、もう誰もが知っている「サッポロ一番」が看板商品なんですけれども、これはお父さま、毅さんが開発されたそうですね。
井田社長
そうです。サンヨー食品創業当時から父が商品開発を行っていました。創業当時は、即席めんの要であるスープ作りを自宅の台所で行っていました。当時は中小企業ですし、開発室や設備も何もなかったわけです。自宅でのスープ作りに貢献したのは、私の母でした。
司会
お母さまですか。
井田社長
母は料理が得意でありまして、父を助けるために、生まれたばかりの子どもを背中におぶった状態で、台所にこもってスープ作りに没頭したそうです。そして、母が作ったスープを父が味見をし、調整をして、最終的なレシピにしたそうです。父の味覚は天才的に優れておりまして、「サッポロ一番」のしょうゆ味、みそラーメン、塩ラーメンは、父が作った最高傑作であるというふうに思います。
司会
そして、今私たちの食卓にはなくてはならない、もうスタンダードな食べ物というふうになりましたよね。
井田社長
そうですね。父は亡くなって2年になりますが、今でも国民の皆さんにこの「サッポロ一番」が愛されていることを大変に嬉しく思っていると思います。サンヨー食品の経営理念は、「良い味の創造」というシンプルな言葉です。この「良い味の創造」を、今でも徹底的に守ってまいりたいと思っております。
司会
まさに「サッポロ一番」の味というんでしょうか、シンプルだけど深みがある、そんな経営理念ですね。
井田社長
そうですね。「良い味の創造」、いい言葉だと思います。

幼少期から青年期

司会
子どものころから井田社長は会社を継ぐお気持ちはあったんですか。
井田社長
それが、そういう気持ちにはあまりなっていませんでした。と申しますのは、父は仕事と家庭を全く一緒にしない、分けて考える人でした。そして、私の将来に関しても、自分の道は極力自分で開くようにというふうに言われて育ってまいりました。後継者にならなければならないというプレッシャーを感じることが全くなく、のびのびとした学生生活を送ることができました。
司会
学生生活のお話も、せっかくですから少し教えてください。
井田社長
私は前橋高校を卒業したんですけれども、高校1年のときに、野球部が甲子園で完全試合をしたときに応援できたことが、私の高校時代の大変いい思い出になっております。
司会
今でも語り継がれる、あの松本投手のときの話ですか。
井田社長
そうです。あの松本投手の完全試合を、甲子園という球場で目の前で見たのは非常にいい思い出になっております。
司会
その後はどのような道を進まれましたか。
井田社長
大学は立教大学に進学をいたしました。大学4年生のときに、就職活動をするわけですけれども、その際に父に相談をしましたら、父からは「サンヨー食品のことは一切考えなくてよい。自分がしたい仕事をしなさい。」というふうに言われました。そこで、金融機関に興味がありましたので、銀行に就職をしたわけです。

入社の経緯

司会
でも、その後、結局は社長、入社することになるわけですよね。
井田社長
そうですね。
司会
これはどういった理由からでしょうか。
井田社長
まず、銀行に入社してからのことをお話ししますと、当時日本経済が活況を示しておりましたので、銀行の業務も大変やりがいのある仕事をさせていただきました。毎日朝から深夜まで仕事をし、忙しいながらも充実をした毎日を送っていたわけです。ところが、銀行に入って7年目のある日、母から私の勤務先に電話がかかってきました。「父にがんが見つかった。しかもかなり進行しているので、近日中に手術をする予定である。」と言われました。その瞬間に、「銀行を辞めてサンヨー食品に入社をしよう。父の手助けをしなければならない。」と思ったわけです。それまで魅力的だった銀行の仕事は、その瞬間から急速に輝きを失ってしまい、父のこと、そしてサンヨー食品のことで頭がいっぱいになってしまいました。すぐに当時の上司に経緯を伝え、半年後に銀行を退職いたしました。そして、サンヨー食品に入社をしたわけです。父の手術の日は銀行を休んで、手術室の前でずっと見守りました。手術時間は6時間以上かかりましたが、手術が終わって出てきた担当の先生から「成功しました。大丈夫です」という言葉を聞いたときは、安堵のあまり腰が抜けるほどでした。

社長就任

司会
そして入社から6年後、1998年(平成10年)に社長に就任されましたけれども、36歳での社長就任だったそうですね。このときは井田社長、どんなお気持ちでしたか。
井田社長
私のサンヨー食品入社のきっかけになったのは、父のがんでした。ただ、その手術は大変成功いたしまして、その後がんの再発もなかったわけです。父は元気を取り戻し、一層社長として精力的に仕事をしていました。また、私もサンヨー食品に入って、社長である父のサポートに徹して、順調に仕事をこなしていました。ところが平成10年に、父がまた体調を崩して入院して、検査をしたところ、間質性肺炎という重い病気にかかっていることが判明いたしました。がんに続いて二度目の大病をすることになったことで、父も私へのバトンタッチを決意したようです。幸いながら二度目の大病も、よい先生に巡り合って治ることができました。私にバトンタッチした後は、父はかねてからの趣味である油絵や、旅行、またゴルフを楽しみ、悠々自適な生活を送っていました。今から2年前に83歳で亡くなりましたが、私の父の人生は大変に充実をしていたというふうに思います。私自身は、当時36歳という若さでサンヨー食品の社長に就任いたしましたが、既に入社してから6年が経過しており、サンヨー食品のこともよく理解し、気負うことなく自然体で社長になったと思います。
司会
今、井田社長、自然体でっていうふうにおっしゃっていましたけれども、ただ、自分より年上の方、ベテランの方々の上に立つという形になりますよね。そのあたりというのは、何か気遣いであったり、ご苦労というのはありませんでしたか。
井田社長
父を支えたベテランの役員や社員の皆さんは、私のことも子どものころからよく知っていました。私自身にとっても、皆さんは気心の知れた仲間という存在です。
司会
ある意味、もう家族のような、そんな存在だったんでしょうかね。
井田社長
そうですね。家族的な雰囲気がサンヨー食品の良さかなと思っております。また、私が社長に就任した後も、ベテランの皆さんには引き続き、私の応援をお願いしましたので、父から私へのバトンタッチは極めてスムーズに進行したと思っております。
司会
そして、井田社長の、この後は取組についても詳しくお話を伺っていきたいと思いますが、その前に1曲お届けいたしましょう。今日は社長、どんな曲を選んでくださいましたか。
井田社長
私のリクエスト曲は、エリック・クラプトンの『チェンジ・ザ・ワールド』です。エリック・クラプトンは若いころからのファンでして、日本公演にも何度か行ったことがあります。
司会
あら、うらやましいです。
井田社長
クラプトンは、年齢を重ねるたびに、いぶし銀のような魅力が増していて、渋い男の魅力がありますね。私も見習いたいです。
司会
それでは1曲お届けいたしましょう。エリック・クラプトンで『チェンジ・ザ・ワールド』。

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