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平成29年8月3日(第53回)放送【1】

【プログラム】
●トップインタビュー:鹿島エレクトロニクス株式会社 鹿島保宏 社長
●保証協会からのお知らせ:シルキークレインpresentsガールズ創業カフェin桐生 について
●チャレンジ企業紹介コーナー:レベルブックス

プロローグ

司会

こんにちは。ご案内役の奈良のりえです。夢への挑戦をテーマに企業トップへのインタビューなどをおよそ1時間にわたって放送している「チャレンジ・ザ・ドリーム」。今日のトップインタビューは、電子機器の受託生産や、ハードウェア、ソフトウェアの開発などを手がける吉岡町の鹿島エレクトロニクス株式会社の鹿島保宏社長、65歳です。鹿島エレクトロニクスは1975年(昭和50年)の設立で、鹿島社長と父昇さんとで創業しました。当初はセラミックコンデンサーの製造加工の受託業務を行い、電機メーカーの下請け会社としてスタートしましたが、その後、電子機器の受託生産や、ハードウェア、ソフトウェアの開発などを手がけるようになり、取引先を拡大、中国にも進出しています。鹿島社長に創業当時の様子や事業拡大の道のりなどを伺っていきます。そして番組後半は訪問インタビュー。町の本屋さんが減少している中、去年12月に高崎市の市街地で空き店舗を改装してオープンしたレベルブックスをご紹介します。

トップインタビュー

鹿島エレクトロニクス株式会社 鹿島保宏 社長

司会
今日はFM GUNMAのスタジオに鹿島エレクトロニクスの鹿島保宏社長にお越しいただいています。どうぞよろしくお願いいたします。
鹿島社長

どうぞよろしくお願いします。


〔収録風景:FM GUNMAスタジオにて〕

大学卒業後イタリアへ

司会
鹿島エレクトロニクスは1975年(昭和50年)に鹿島社長とお父さまとで創業されたということなんですが、鹿島社長はそれまでヨーロッパにいらっしゃったそうですね。
鹿島社長
はい。大学を卒業すると同時に2年ほどイタリアに行っておりました。目的は前橋ご出身の実業家でイタリア在住の宮川秀之さんという方がおられますが、その方を訪ねてイタリアに行きました。
司会
もともとお知り合いだったんですか。
鹿島社長
私のおじの高校時代の同級生ということで、昔から宮川さんのサクセスストーリーをよく聞いていたということです。宮川さんはイタルデザインという会社の副社長として活躍しておりますが、有名なカーデザイナーでジョルジェット・ジウジアーロさんという方と一緒にイタルデザインを創業しまして、車でいいますと、フェラーリとか、ランボルギーニとか、そういうものを代表作として残しております。
司会
デザインをしていらしたんですか。
鹿島社長
デザイン会社のほかに、私が伺ったときは、工作機械の販売会社、それからオートバイの販売会社もやっておりまして、非常に幅広く事業を手がけていました。そこで働きたいというか、近くで仕事の仕方を見たいといいますかね、そんな感じで伺った次第です。
司会
実際に行ってみていかがでしたか。
鹿島社長
もともとイタリア語を話せませんでしたので、「おまえ、イタリア語を話せないんじゃ駄目だよ」ということで、ペルージャ大学といって、外国人のためのカリキュラムを持っている学校があるんですが、そこにすぐ入りまして、大学生活が始まるわけですけど、非常に楽しく過ごさせていただきました。
司会
大学で語学を学びながら、宮川さんからは一番何を得ましたか。
鹿島社長
チャンスをつかむ力というんですかね。もちろんその能力というのは持って生まれたセンスもあるんでしょうけど、やはり情報をキャッチして自分のビジネスにつなげる、それから行動が早い、考え方がワールドワイドっていいますかね、考え方の大きさっていうか、そういうものをすごく勉強させていただきました。

創業の経緯

司会
そのような充実したイタリア生活の中で、なかなか群馬に帰ってくるというお気持ちにはなりにくかったのではないかなと思いますが、どうして帰国することになったんですか。
鹿島社長
父親から「すぐ電話をくれ」という電報が来まして、電話をしましたら「すぐ帰ってこい」ということなんです。
司会
何があったんですか。
鹿島社長
親戚がエレクトロニクスの仕事をやっておりまして、そこがオーバーフローしてしまうので、「新しい仕事をやらんか」ということで、今回の会社の仕事を興すきっかけになったわけですね。
司会
事業の立ち上げのために……。
鹿島社長
そうです。
司会
鹿島社長をお父さまがお呼びになった。
鹿島社長
そういうことですね。結構私も抵抗したんですが、帰らざるを得なくて、帰ってきまして、その当時は髪の毛が非常に長くてですね。
司会
いわゆる……ロン毛で。
鹿島社長
そうです。ロン毛で、ひげもはやしておりまして。
司会
そうですか(笑)。
鹿島社長
大手の電子部品メーカーの仕事をするということで、そこの役員さんにごあいさつに父親と行きましてですね。
司会
ちょっと待ってくださいね。
鹿島社長
はい。
司会
帰ってきたときのその様子が、ひげと、髪が長く。それで役員さん、日本の役員さんに会いにいく?
鹿島社長
そうです。だから、そういうことの社会通念すら知らなかったということでしょうか。
司会
ええ。ですから製造業というのを初めて経験するわけです。それで、そのままの形で父と役員さんのところへ行きましたら、「こんなやつに仕事できるんだろうか」っていうようなことを、私自身が見て取ったわけです。こりゃまずいぞということで、早速床屋に行きまして、角刈りにして……。
鹿島社長
角刈り(笑)。
司会
ひげもそりまして、気合を入れるぞという意味で。私はそこの会社に伺った時にイタリアにいた世界と全く違うと感じました。
鹿島社長
全く違う中でなじめないとか、抵抗というのはなかったんですか。
司会
そうですね、帰ってきた時点で、もう腹を決めたということでしょうか。
鹿島社長
ああ、覚悟していました?
司会
ええ。だから、ここでやらないと、いくら大きな希望を持ってもキチンと階段を登れないぞと。

創業当時の様子

司会
会社設立当時はどういったことからスタートしたんですか。
鹿島社長
そうですね、コンデンサーの加工というのをやりまして、加工の工程というのが印刷をする工程なんですね。
司会
はい。
鹿島社長
お客さまからその設備を借りてやるわけですけど、人集めがなかなか大変でして、近隣の知り合いのおばさん達を頼んでスタートしたのが30人くらいだったと思います。その会社には、協力会社が30社ほどあり、そこにどん尻で僕らは入ったわけです。キャリアの長い会社や大きな会社は、会議でも一番前に座れるわけですね。僕らは一番隅っこのほうで聞いているわけですが、いつかは一番前に座ってみたいとずっと思っていました。それから電子部品というのは季節的な変動があるんですよ。
司会
例えばどういう時期が?
鹿島社長
春と秋口が非常に忙しくなるんですが、そういう変動が結構ありました。当時はエレクトロニクスが右肩上がりで非常にいい時代でした。季節的にオーバーフローするんですが、人がいないものですから、自分でやらなきゃダメなので、寝ずに稼いだこともありまた。会社が自宅から近いところにありましたので、母が夜たまに見にくるわけですよ。そうすると「コンクリートの上でよく寝ていた」と言うんですね。そんなことをずっと繰り返して、10年経つと、そこそこのポジションにいくんですけど、やればできるんだというところですかね。

成長期、発展期

司会
その電子部品メーカーの協力会社の中で、その10年後というのは、目指すところまで行ったんですか。
鹿島社長
そうですね、おかげさまで二番手か三番手ぐらいになったと思いますよ。
司会
そうですか。その10年間、30人位でスタートした会社が、10年後にはどのぐらいの規模になっていらっしゃいました?
鹿島社長
そうですね、100人ぐらいになっていたと思います。
司会
順調ですね。ただ、それだけ右肩上がりであればあるほど、ずっとその状態が続くわけではないような気もするんですが……。
鹿島社長
ええ、おっしゃるとおりです。
司会
そのあたりというのは、何かまた変化がありましたか。
鹿島社長
そこの会社の創業社長のポリシーとして、他の会社の仕事をしてくれるなよということでしたが……。
司会
その電子部品メーカーさんが。
鹿島社長
ええ、そうです。それなのに、二代目社長があいさつに来られた時に「鹿島さん、この仕事、全部海外に持っていくから、何年か後にはなくなるから、明日からでもいいから、ほかのところの仕事を探しなさい」と言われて、青天の霹靂ですよね。
司会
ええ。
鹿島社長
でも、これはやはりその会社さんが悪いわけではなくて、電子部品というのは一番初めにそういう海外展開をしないと駄目な業界ですので、それはそれで腹をくくってやるということだと思うんですね。
司会
そうすると、新しい取引先を見つけなくてはいけないという状況が急遽訪れた?
鹿島社長
ええ。何で調べたかというと、会社四季報とか、会社情報とかありますよね。それを見て、ほとんどの電子機器メーカー、家電メーカーに電話をかけまくりました。やはりそういうふうに真剣にやると、誰かがちゃんと見ていてくれるんですね。あるフロッピーディスクの会社のところに電話をしましたら、「ちょっと来ないか」ということで仕事をいただきまして、そこから展開をしていって、フロッピーディスクのほかに、ハードディスクとか、さまざまな電子機器の横展開をしていったのです。
司会
そうですか。そうしますと、そこでずいぶん柔軟な対応が必要になりましたね。
鹿島社長
テクノロジーは、どんどん変わっていくので、それに追随するためのいろいろな機械を買わなきゃいけないということになります。お客さまごとに設備投資をしていって、横に展開をしていくということです。でも、フロッピーディスクも、ハードディスクも、また10年経つとなくなってしまうわけです。東南アジアにシフトしていくわけです。その次のトレンドはコンピュータ、その次は携帯電話ですね。携帯電話は、そうですね25年ぐらい続きましたけど、今はゼロです。
司会
新しくできるもの、できたものにうまく乗っていかなくてはいけないということですか。
鹿島社長
そうですね。
司会
その新しいものをつかむ、情報をキャッチするというのは、どういうふうにするんですか。
鹿島社長
情報の発信基地というのはたくさんあって、メディアから取るというのは、まずファーストだと思います。新聞雑誌に載っているのは、必ずそこに記事を書いた人、言った人がいるわけですから、そこに行って確かめるということです。
司会
そこに行くというのは?
鹿島社長
そのメーカーさんにですね。
司会
メーカーさんに。
鹿島社長
ええ。それから情報を発信している人のところに行くということです。
司会
記者の方に聞きにいくとか。
鹿島社長
ええ。そういうふうにしないと、リアルでないですね。
司会
そこまで徹底するんですか。
鹿島社長
そうですね。そうでないと、自分の頭の中に、何を具体的にどういうふうにしたらいいかというのがわからないわけですよ。やはり私も今、当社の営業に言っているのは「記事には、記事を書く記者とそれを発信した企業関係者がいて、そこには具体的なリアルがあるんだから、そこをきちんと見なさい」と。「そこを、ただメディアが言っていることというふうに捉えないほうがいい」と僕はいつも言っています。

テーピングマシン

司会
会社の沿革を拝見しますと、1990年代に入り、電子機器の組立の際に工作機械が扱いやすいように、あらかじめ半導体を準備しておくテーピングマシンというのを自社開発されていますけれども、テーピングマシンというのは必ず必要なものなんですか。
鹿島社長
そうですね。我々の仕事は回路基板の上に半導体や電子部品を載せて一つのユニットにするんですけど、そういうところに必ずテープ状に加工するっていう技術が必要なんです。テープ状に加工しないと機械化にならないという。それで、お客さまからテープ状に加工するというのを依頼されたんですが、日本のマシンを幾つか使ってやっていたんですけど、なかなかうまくいかない。それで、アメリカのミルウォーキーにテーピングマシンメーカーがあって、そこへ飛んで行って、買ってきたんですよ。でもそれもうまくいかなくて、じゃあ、これはもう創るしかないねっていう(笑)。そこで、今度は創るところを探すわけですね。設計とかベーシックなところは我々が案を出してやるんですが、加工技術は持っていませんので、どこかに委託をしなければいけないので、パナソニックの関連会社に委託をして創って貰ったという経緯があります。フルスペックで3,500万円ぐらいしていたんですが、累計で60台ぐらい売っています。自分たちが創ったマシンが売れたというのは、会社の自信にもなりますよね。
司会
この後の事業展開についてもお話を伺っていきたいと思いますが、ここで1曲、皆さんにお届けしたいと思います。やはり鹿島社長、イタリアに行っていたということは、イタリアの曲ですか(笑)。
鹿島社長
まあ、そうですね。オルネラ・ヴァノーニで曲名は『L’APPUNTAMENTO』です。私がちょうどイタリアにいるころ非常に流行っていた曲です。
司会

はい。それではお聞きいただきます。オルネラ・ヴァノーニの『L’APPUNTAMENTO』。


〔本社社屋〕

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