信用保証協会とは三つの支援保証利用のご案内コンプライアンス・個人情報情報公開
保証協会へのアクセス制度検索ご相談窓口よくある質問リンク集
群馬県信用保証協会トップページ > チャレンジ・ザ・ドリーム >


平成29年9月7日(第54回)放送【1】

【プログラム】
●トップインタビュー:株式会社フライングガーデン 野沢八千万 社長
●保証協会からのお知らせ:「信用保証ガイド」について
●チャレンジ企業紹介コーナー:サイトウグンマ

プロローグ

司会

こんにちは。ご案内役の奈良のりえです。夢への挑戦をテーマに企業トップへのインタビューなどをおよそ1時間にわたって放送している「チャレンジ・ザ・ドリーム」。今日のトップインタビューは、看板メニュー「爆弾ハンバーグ」でおなじみ、株式会社フライングガーデンの野沢八千万社長、69歳です。群馬、栃木、茨城、埼玉、千葉に店舗を展開するフライングガーデンは、野沢社長が桐生市内でピザ、クレープ店を始めたのが原点です。その後、市内にフライングガーデン1号店をオープンさせて、ファミリーレストラン事業を展開。現在、62店舗があります。まちの軽食店から62店のレストランチェーンに。野沢社長に事業拡大の軌跡や成功のポイントなどを伺っていきます。そして番組後半は訪問インタビュー。庭園デザイナーで、ペルー発祥の打楽器「カホン」制作者でもある前橋市の齋藤秀典さんをご紹介します。

トップインタビュー

株式会社フライングガーデン 野沢八千万 社長

司会
株式会社フライングガーデンの野沢八千万社長にFM GUNMAのスタジオにお越しいただきました。どうぞよろしくお願いいたします。
野沢社長

よろしくお願いします。


[収録風景:FM GUNMAスタジオにて]

野沢社長

司会
最初に野沢社長にちょっとお名前についてお聞きしたいんですけれども、八千万って書くんですね。これ、ビジネスネームですか。
野沢社長
いや、違います。本名です。私が産まれたのは昭和22年なんですね。ちょうど日本の人口が8,000万ぐらいで、当時戦争に負けたばかりで、国民も、当然うちも食べるのにも本当に大変な時代。みんな困っている八千万の人たちを幸せに食べさせてやれるような男になれということで、八千万と付いたんですよ。
司会
まさにそのお名前、お父さま、お母さまの思いを貫き、今の社長がいらっしゃるという感じがいたしますね。
野沢社長
貫いたという意識はあまりないんですけど、むしろ親の暗示にかかったのかもわからない(笑)。
司会
桐生市が創業の地なんですけれども、社長ご自身は桐生のご出身ですか。
野沢社長
いや、茨城県の笠間市です。
司会
笠間市ですか。またどういうご縁で?
野沢社長
妻の出身地が桐生市なんです。それで、私が二十歳のときに妻のお父さん、お母さんに結婚の承諾を得ようと思って、当時の真っ暗い新桐生の駅に……。
司会
真っ暗い。
野沢社長
駅舎も木造で、そこに真冬の夜7時半頃に降り立ったときに、なんかわかりませんけれど「ここでお店やると成功するな」ってひらめいたというか。それで桐生でやると決めたんです。
司会
そういったご縁だったんですね。社長の小さい頃のお話なども少し伺えればと思うんですけど、将来こんなことをやりたいんだなんていうふうに夢を描き始めたのはいつぐらいですか。
野沢社長
小学3年のときですね。社長になると決めました。
司会
えっ、小学3年生で?社長?
野沢社長
はい。
司会
それはまたどうしてですか。ずいぶん早いんですね(笑)。
野沢社長
私より18歳も上なんですけど、一番上の姉の旦那さんが土木建築の社長をしていたんですね。今からもう60年近く前で、車に乗っていて、750ccのオートバイを持っている。こんな人はあまりいないんですね。たまに車に乗せてくれると、おいしいものを食べさせてくれたりで、格好いいなと。それで、兄貴は何をしているのかと聞いたら、姉が「社長だ」と。「ああ、社長はいいな」と、これに決めました。小学3年ですから、まあ8歳ぐらいのときにね、そういうふうに決めました。
司会
その後、ご職業として飲食を選んだのはどうしてですか。またいつぐらいですか。
野沢社長
選んだのはですね、最終的には中学3年生ですね。
司会
ほかに選択肢はあったんですか。
野沢社長
3つありました。デザイナー、それと美容師、それと料理人ですね。
司会
料理。ああ、そうですか。
野沢社長
日本では当時、大体その3つの職業のトップは女性の方が占めていました。でも、世界を見渡すと、美容業界も、デザインの業界も、料理の世界も全員男性がトップなんですね。ということは、将来はたぶん日本も男性がトップの時代が来るのではないかと考えて。デザイナーは絵が下手だから駄目。美容師という柄じゃない。料理はもともと好きですから、もう迷わず料理ということで決めました。
司会
修業はどのようになされたんですか。
野沢社長
最初は、一般的な大衆レストラン的なところで、コックさんが20名ぐらいいました。そこでもっと上を目指したいと思い、フランス料理の勉強をしようと。お店が終わるのが大体夜11時から11時半。寮に帰って、風呂入って、食事を食べ終わると大体午前1時になります。それから毎日、1日2時間は勉強をするという……。
司会
料理の勉強を。
野沢社長
料理と、フランス語、あと英語ですか。料理の専門用語ですね。それを暗記したりしていました。
司会
そうですか。
野沢社長
私の料理の師匠が、世界料理オリンピックの団体と個人の金メダリストの方なんですよ。その人が、フランスに6年ぐらいいて帰ってきたときに、20人のコックの中から、私と函館出身の先輩と2人が「おまえたちはここにいないで」、シェフは今井さんっていうんですけど、「今井さんのところに行け」と選抜されたので、本当にうれしかったです。
司会
今井シェフのところでは、どのぐらいの修業を積まれましたか。
野沢社長
3年半ぐらいですね。
司会
3年半ぐらい。その後、いよいよ独立というふうになっていったんですか。
野沢社長
いいえ。それから今度は、群馬県の伊勢崎市に従兄弟がいまして、レストランをしたいということで、3年半ぐらい、やっぱりいましたかね。
司会
そうすると、独立のタイミングというか、もともと社長になりたいという夢があったということですが、そろそろ自分でと切り替えていったのはいつぐらいになるんですか。
野沢社長
高校を卒業するときに、「5年間で料理の一人前といわれる腕を持とう」と、「残り3年で店長としてのマネジメント力を付けよう」と、そして26歳で独立するという絵は描いてありましたから。
司会
なるほど。もう具体的に決めておられたということですか。
野沢社長
そうですね。その計画も明文化していて、メニューまで。例えばこの立地でやるときはこのメニューということを考えていましたし、店名もつくってありました。
司会
お名前もできていた。
野沢社長
それで、外観のデザインですか、それも自分、絵下手ですけど、デザインも描いて、もう全部文字にしたり、絵にしたりしてやっていました。

創業時の様子

司会
1976年(昭和51年)に桐生市内でピザとクレープのお店を始めたそうですけれども、桐生だったのは、先ほど奥さまのご実家に行かれるときにというお話でしたけれども、それだけで決めたんですか。それとも、もう少しご自分の中で練って決めていったんですか。
野沢社長
いや、それだけです。
司会
それだけですか(笑)。
野沢社長
はい。そういった理論・理屈じゃない霊感みたいなのが、出るみたいですね。
司会
まあ、そういった部分もおありですし、緻密にお店の計画を立てていかれたというお話でしたけれども、スタートするときのお店というのはどんな感じでした?
野沢社長
そのお店はピザ&クレープの「ノザワ」っていう名前で、ピザとか、クレープなんですけれども、ピザというのも、群馬県ではなかったんですよね。
司会
はしりぐらいですか。
野沢社長
そうですね。ですから、イタリア風お好み焼きという形で。それとクレープも、我々の業界でグランドメニューと呼ぶメニューブックにちゃんと載せたのは、日本でピザ&クレープ「ノザワ」が一番早かったです。
司会
それは修業時代に知っていたことだったんですか。
野沢社長
はい。今井シェフに教わって。でも新しいものを売るときっていうのは、タダでくれることですね。
司会
タダで?
野沢社長
じゃないと売れません。
司会
まずは皆さんに召し上がってみてくださいと。
野沢社長
そうです。最初の3カ月、来た人1人に1枚ずつ、全部無料で。
司会
3カ月間ですか。
野沢社長
はい。
司会
そういう中で、どのぐらいで浸透していきましたか、新メニューというか。
野沢社長
そうですね。その後やっぱり話題になって、半年ぐらいたってからですか、新聞の取材とかで取り上げられて、面白いようによく売れました。
司会
チェーン展開というのがもともとあったんですか。
野沢社長
そうですね。私が見習いコックのときに、客単価が5千円とか1万円とか、とにかく高かったんで、普通の方は食べられないんです……。革靴履いて、スーツを着て、ネクタイしてと。中華料理とか、ラーメン店というのは、極端な話を言うと、サンダル履きでも食べられるんですが、洋食にそういうのはないんですよ。そうすると、もっと気軽にネクタイしなくても、カジュアルに食べられる価格設定だとか、食べやすい、みんなが知っているようなものを提供していくと需要があるんじゃないかなと。
司会
多くの皆さんに気軽においしいお料理を食べてほしいなという、そういう思いから、チェーン展開というのがおありだったんですね。
野沢社長
そうですね。やっぱり店が1軒よりも多いほうが、多くの人を喜ばせることができる。
司会
確かにそうですね。
野沢社長
1軒の店よりは10軒あったほうが、働いている方も多い。ということは、これも大きな意味で言うと社会貢献というようなことは考えていました。

フライングガーデン開店

司会
「ノザワ」開店から8年後、1984年(昭和59年)にフライングガーデンの1号店を桐生市内に出店しました。ファミリーレストランにかじを切ったということですが、それはやっぱり、今お話をしたような背景があったからですか。
野沢社長
はい、そうですね。
司会
場所選びとか、お店のコンセプトというのはどういうふうに決めていきました?
野沢社長
場所選びは、最初はやはり勘ですね。理論的に構築されているものはありませんでした。ただ、勘が働いた後に、今度は自分の能力では足りないんで、やっぱり裏付けとして、専門家に全部立地分析をしていただいて。
司会
そのあたりはやっぱり肝になってくるというので、緻密になさっていったということなんですね。
野沢社長
そうですね。最初は勘ですよ。感覚的に「いいな」って思う。そしてそれを理論的にどうかと。
司会
1号店を出した段階では、まだ現在の看板メニューとなっている「爆弾ハンバーグ」はなかったということなんです。開発の様子などは、この後たっぷりと伺っていきたいと思います。さあ、その前に1曲お届けしたいと思います。今日は2曲、野沢社長に選んでいただいております。まず1曲目が谷村新司さんの『英雄』という曲ですが、谷村新司さんというと、有名な曲はほかにもありますけど、この『英雄』というのはどうしてですか。
野沢社長
何となく。勘です。(笑)
司会

何となく、直感で選んでいただいたこの曲をお届けいたしましょう。谷村新司で『英雄』。


[爆弾ハンバーグキング 和風ソース]

チャレンジ・ザ・ドリーム目次



群馬県信用保証協会 〒371-0026 群馬県前橋市大手町3-3-1 TEL 027-231-8816